『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が鬱小説として紹介されるたび、僕は発狂しそうになる。でも『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(以下砂糖菓子の弾丸)は定期的に”鬱小説”としてバズる。
さらに困ったことに、私が好きなジャンルはなにかといえば「鬱小説」なのである。
正直私はあまり気持ちを言葉に表すのが得意ではない。ので、インターネットやSNSで流暢に自分の感情を言葉にできる人たちを見ていると、解像度高いなと思う。……なんと人並な感想であろう。
まあそのあたりもブログを始めようと思った切っ掛けの一つではあるのだが、とにかく今回は砂糖菓子の弾丸について語りながら、”鬱小説”のどこが自分の中で引っかかってしまっているのかについて探っていきたいと思う。
砂糖菓子の弾丸についてのネタバレを漏らしてしまう可能性もあるので、まだ読んでない方はブラウザバックして是非手に取っていただきたい。
そもそも鬱小説とは何か。Wikiより引用すると、
後味の悪い読み物を指す小説の一ジャンル。 多くは悲劇の筋立てが用いられ読後に持続する憂鬱な気分やトラウマ的な嫌悪感を残すことによって主題が強く印象付けられる小説になっている。
出典:鬱小説 – Wikipedia
それに照らしてみれば、砂糖菓子の弾丸は悲しい物語であることは間違いない。ハッピーエンドではないだろうし、かといってメリバというわけではない。
しかし、読後感が悪いかと言えば意外なことにそうではないのだ。藻屑を喪ってしまった遣る瀬無さは残るものの、渚の周りは少しずつ前向きになろうとしていく。
少なくともこれを読んだ頃――丁度渚たちに年齢が近かった14歳の自分にとって、この本は救いであり、聖書だった。
救い、なんて大仰な言葉を使うと鼻で笑われてしまうかもしれないが、これを読んだときの感情をファッションとしてラベリングされること、そういう感情を踏み躙られるのが嫌だった……のかもしれない。
とは言えもし当時、中学校の図書室でこの本に出会わなかったら……鬱小説というラベリングから手に取っていた可能性は高い。
そういう、出会うべき時期に出会うべき作品に出会った、という経験はやはり人生の中で糧となるのではないだろうか。
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ちなみにこの砂糖菓子の弾丸は私の知るところでは3パターンの文庫版がある。
一番最初に刊行されたむー先生イラストの富士見ミステリー文庫版と、現在一番入手しやすいであろう角川文庫版、そして同様に角川文庫だが白身魚先生がカバーイラストを手掛けたものである。ちなみに中身は同じである。ただ、富士見ミステリー文庫版は挿絵があって可愛らしい。
あとは杉基イクラ先生の漫画版もある。
渚と藻屑――二人の少女を可憐に、繊細に描いていて、小説を読んだ人にもそうでない人にも一読の価値があると思う。
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