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みりんをください
「私、もう無理。」
さやかがそう言い放つと、男は息を呑んだ。頬をひきつらせ、感情を隠そうとしたその顔は、ゴムが劣化したビニール人形のように歪んでいる。
男は焦燥感を隠すように灰皿からタバコを掴み、火もつけずにまた放り投げた。落ち着きのない指先が全てを物語っている。
「ねえ、わかるでしょ?」
さやかの声は震えていたが、気持ちを込めすぎないように努めていた。
男の目は細く三日月のように歪み、その奥に熱を宿している。その目で一度でも愛おしそうにさやかを見たことがあっただろうか?
かつて愛していた。求められていたのが自分自身ではなくても、彼の心の澱みを一度はすべて掬い取りたいと思ったことさえある。それでも、この結末を招いたのは彼の方だった。
「みりんをください。」
毅然とした声で言い切る。それでも語尾のかすかな震えを男は感じ取ったかもしれない。
さやかは鞄を引っつかみ、立ち上がる。無造作にポケットに突っ込んでいた千円札をテーブルに置き、背筋を伸ばして踵を返した。絶対に振り返らない。そう決めた。
だが——
「さやか。」
低い声に心臓がぎゅっと締め付けられる。振り返りたくない、けれど足が止まってしまう。
「新味料、今日の午後4時からタイムセールで50円引きだぞ。」
——は?
さやかは思わず振り返った。そこには笑みを浮かべた男と、はちみつの瓶を抱えた彼の影。
「……お得だぞ、吟醸さやか。」
その一言が、さやかの脳内で爆弾のように炸裂した。
「二度と名前で遊ぶな!」
さやかの叫びが、みりん売り場に虚しく響いたのだった。