第壱話 「花影の出逢い」

 明治二十七年、東京。春浅き夕暮れ、霞のかかる川沿いの道を、ひとりの青年が歩いていた。

 新太郎は書生であった。生家は地方の小さな商家で、東京の大学に学ぶために上京した身である。安宿の薄暗い灯りの下、夜毎に書を繰り、学資を稼ぐために新聞社の片隅で筆を執る日々。貧しきながらも、志だけは高く持ち続けていた。

 そんな彼の足を止めたのは、一輪の花びらであった。

 風に舞う白梅が、夜の帳を前に静かに揺れる。その花びらが、水辺に佇むひとりの女性の肩に落ちたのを、新太郎は目にした。

 薄桃の着物に、淡い藤色の帯。黒髪は結い上げられ、品のある横顔が桜色に染まる。まるで儚き春の幻のような、その姿。

 彼女もまた、新太郎の視線に気づいたのか、ふとこちらを振り向いた。

「……失礼を」

 無作法を詫びるつもりで新太郎は口を開いた。だが、言葉を続けるより早く、彼女は微笑んだ。

「風が、よく吹いておりますね」

 柔らかな声音に、新太郎の胸がわずかに波立つ。

「ええ。春の訪れが近い証でしょう」

 そう応じながら、新太郎は自分でも不可解なほどに、この女性の佇まいに目を奪われていることを自覚した。

「あなたも、この川辺を好まれますか?」

「……はい。落ち着きますので」

 彼女はふと目を伏せた。そのまつげの影が長く伸びる。

 名を問うべきか、立ち去るべきか——

 だが、その逡巡は唐突に破られる。

「お嬢様、お迎えが参りました」

 恭しく声をかける女中の言葉に、新太郎ははっとする。

「……それでは」

 彼女は小さく一礼すると、新太郎の前を通り過ぎ、黒塗りの馬車へと向かった。車輪の音が遠ざかり、再び静寂が戻る。

 風に乗り、ふわりと香る白梅の匂い。

 彼は知らなかった。この出逢いが、自らの運命を大きく変えるものとなることを。

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